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2021.7.26

人間性と因果応報(小山田圭吾氏の問題から考える)

エンブレムのデザイン問題にはじまり、不正招致疑惑、女性蔑視発言、容姿侮辱発言・・・など、開催前から動乱続きのオリンピックで、開会式でトドメを刺されたような気分になりましたが、いざ競技が始まるとテレビやネットに釘付けになりました。すでに嬉しいニュースも続いており、選手の方々の健闘を祈るばかりです。

いろいろ問題はありますが、すべて事務方の問題であって選手の問題ではありません。スポーツに人生を賭け、日々血の滲むような努力をしているアスリートたちが、自国開催という一生に一度のチャンスを得ているという状況です。延期になったことも、祝祭ムードが失われてしまっていることも、もはや不運としか言いようがないですが、この晴れ舞台で自分の実力を出して活躍いただけるよう、TV越しに応援していきたいです。

世論は割れていましたが、個人的にはオリンピックは開催できるなら、開催できる範囲で実施した方が良いと考えていました。問題の本質はオリンピック自体の是非ではなく、ダブルスタンダードにあります。オリンピックが開催できるなら、他の催事もできるはず。特に子どもや学生にとって、一生に一度しかない行事がことごとく中止になっている状況を考えれば、そっちも開催してあげて欲しい。飲食業への締め付けもひどい。酒類の提供禁止に関しては、もはや意味不明です。何の合理性もない。

目的は飛沫感染と接触感染を回避することなので、他にもっと効果的な方法があるだろうことは考えればすぐにわかります。利害関係の調整が複雑すぎて(面倒くさすぎて)、楽な大ナタをふるっているようにしか見えません。やられた方は完全にいい迷惑です。これだけ根拠も合理性もない場当たり的な政策を続けて「緊急事態宣言」と宣うのであれば、オリンピックも開催できる状況ではないはず。結局のところ、結論ありきで物事が進められ、判断基準が恣意的に歪められていることが、すべての不満、不審の元凶ではないかと思います。

やはり、人の信用と信頼を得るためには一貫性が大切だなと改めて痛感です。

「いじめ」ではなく「犯罪」

さて、オリンピックをめぐる諸問題の中で、最も記憶に新しいのが小山田圭吾氏の問題です。オリンピックの理念や大義名分を考えれば、どう考えても辞任しかないだろうと思うのですが、結論に達するまでに予想以上に時間がかかったなという印象でした。(一方で、小林賢太郎氏の解任は早かったですね。小山田氏の直後だったこともあるでしょうが、迅速に対応できることが示されると、人種問題や海外からのプレッシャーに比べて、障害児への虐待は軽視されているようにも思えてしまいます)

当時のサブカルチャーの風潮であるとか、掲載された2誌の思想や価値観であるとか、小山田氏を擁護する意見もありましたが、もはやそういう次元を超えています。ネットで記事を見ましたが、読んでいる途中で吐き気がしてきました。小山田氏本人は論外ですが、これを活字にするという過程で、雑誌も何も感じなかったのかと疑問です。

どのような人が倫理的に正しいとされ、正しくないとされるかという点については、本質的には二千年以上前からあまり変わっていないように思います。人間社会が織りなす代表的なトラブルは、神話の時代から「組織の人間関係」「借金」「不倫」であり、現代にそのまま通用するとすら言えます。文化的な側面では、地域や時代によって様々に異なることもあるでしょうが、文化を超越した人間としての原理原則は変わりません。何が「正しい」のかは、私たちはみなすでに知っているのです。

私も決して、清廉潔白に生きてきたわけではありません。自分の未熟さで他人を傷つけてしまったこともあるし、後ろめたいことをしたこともあります。しかし、小山田氏が述べている行為は、そういう次元をはるかに超越しています。自分の子どもがこのような目にあったらと思うだけで目眩がする。実際にやるかどうかは別としても、地の果てまでも追いかけて、本人を同じ目に合わせてやるとすら思うでしょう。それが人としての素直な感情だと私は思います。

「いじめ」という言葉も実に都合が良いです。やっていることは完全に暴行や恐喝なのに「いじめ」という言葉にすり替えられることで、印象をずいぶん歪められてしまいます。やっていることは犯罪行為なのに、犯罪ではなくなってしまうのです。

言葉の力は偉大です。認識は概念によって作られ、概念は言葉によって作られます。「いじめ」という言葉があるから、いじめがなくならないのです。もし本当にいじめをなくしたいのであれば、いじめという言葉を使わないようにすれば良いのです。そして、代わりに「暴行」「恐喝」「傷害」と呼ぶのです。好んで犯罪者になりたい人でもない限り、さすがにそこに踏み込もうとする人はいないでしょう。

超えてはいけない一戦はどこなのか。それを指導・教育する上で、言葉の使い方を変えるのは有効だと考えます。すぐに実施できる上、コストもかかりません。

人間性とは何か

小山田氏の問題に限らず、冒頭に挙げたオリンピックの諸問題が世間から矛先を向けられることになった原因は、本人の「人間性」への不審や、そうした人たちが権力を持ち、華やかな世界にいることへの不満にあるように思います。もちろん、私たちは当該者の方々のすべてを把握し、理解しているわけではありません。あくまでも、特定の一場面から窺い知る限りの「人間性」を断じているわけです。

「とっさにそういう言葉が出るということは、日頃からそう思っているんでしょ」という解釈をして、本人の人間性を断じる。それはそれで怖い面もあります。それでも、一昔前ならさほど大事にならずに、喉元すぎて暑さ忘れるのを待つこともできたかもしれません。世の中に何かを発信できる立場にいる人は非常に限られていたからです。しかし、現在はSNSで誰もが発信できる時代です。特にこうした「大衆の敵」への攻撃は、反響が反響を呼び、瞬く間に強大な力になります。

まさに「一事が万事」です。ボロを出さないようにしようとしても限度があります。人間の行動や発言の大部分は無意識によるものです。どんなに注意を払っていても、いつかはボロが出ます。結局のところ、過ちを犯さないようにするためには、ボロがないようにするしかありません。しかし、完璧な人間なんていません。絶対にできないとは言いませんが、どこからどう見ても清廉潔白な人であり続けることは現実的とは言えないでしょう。私たちができることは、少しでもそこに近づけるように、日頃から人間性を磨き、高め続けることだけです。

6年ほど前、人間力に関する投稿をブログに連投しました。だいぶ古い記事ですが、どういうわけか今でも毎日のようにアクセスがあります。キーワード検索から流入しているようです。こうして、その時々の考え方を残しておくことは大事だなと改めて思います。人間性や人間力を語るなどおこがましいとは思いつつも、その必要性や重要性を説くのであれば、自分なりの考え方を整理しておくことは大切だと考えます。

当時、私が人間力を構成する要素として挙げたのは、感謝・誠実・謙虚・知性・気品・自立・健康・構成・夢でした。今でもこれらが重要であるという認識は変わりませんが、この9つではカバーしきれない領域があることも否めません。具体的な要素を挙げたらキリがなく、もっと全範囲をカバーできるような概念に言い表せないのかと、一時期模索しておりました。

いま現時点での、私の人間性の定義は「正しいことを、正しくやること」であり、人間力とはそれを実施できる能力を指します。これは、米国のリーダーシップ・マネジメント理論で用いられる「Do the right thing, Do things right.」を引用したものです。どこかの企業研修で講義をしている時にふと思いついたことですが、この一言で「人としてのあり方」を包括的に表せるようになり、それ以来しばしば講演や研修で用いています。

そして、何をもって「正しい」というのか。それこそが、太古の時代から普遍的に存在している人間としての原理原則である「自分がされたらイヤなことは、他人にしない」という黄金律です。「自分がやって欲しいことを、自分がやって欲しいようにやる」。それを日々、心がける。できるだけパーフェクトに近づけるように、日々努力する。それを続けている限り、人生でそれほど間違いを起こすことはないのではないかと思います。

今回、小山田氏は強烈な社会的制裁を受ける結果となりました。まさに因果応報であり、鏡の法則です。自分が他人にしたことは、自分に跳ね返ってきます。そして、まるで利息がつくかの如く、時間が経てば経つほどダメージは大きくなって返ってきます。倍返しされるのです。

返されるのなら、悪い倍返しより、良い倍返しをして欲しいものです。そのためにも、日々接する周囲の人々に対して、「自分がやって欲しいことを、自分がやって欲しいようにやる」ように心がけていくことが重要ではないかと思います。

本日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

▼2015年に投稿した「人間力」シリーズ▼

人間力を構成する9つの要素1(感謝・誠実・謙虚)

人間力を構成する9つの要素2 知性・気品・自立

人間力を構成する9つの要素3 健康

人間力を構成する9つの要素4(個性)

人間力を構成する9つの要素5 夢(その1)

人間力を構成する9つの要素6 夢(その2)

 

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